窪田政男歌集『汀の時』

2017年5月、月光の会刊。

五月 陽の回廊をゆくきみの背に映しだされる未完のことば

西日入るキッチンごろんとわたくしの半生がうち捨てられてある

雨の夜のわたしはわたしと二人づれ一人は濡れて一人は歌を

両の手をかくしていたるその朝は人を縊りし夢で起きにき

起きぬけの鏡にうつる輪郭をなぞれば頬の骨で止まりぬ

なあおまえ崩れていけよいつまでも天秤棒なぞ担いでおらず

あやとりの川とりきれぬまま夕まぐれ酔うて候ドックオブザベイ

ゆるぎなく開きおりたる虹彩の意志を一輪わたされている

たばこ屋を曲がればきみの家がありそれだけ覚え永久がきたりぬ

以上、『汀の時』より9首。

この歌集の中に「アルコール依存、骨髄増殖性腫瘍と不治の病を二ついただく」「玉子かけごはん食べおえ血液400cc捨てにおもむく」「利き腕も左の腕もさしだして神のよだれのごとき点滴」という3首もあって、巻末の福島泰樹による跋や岡部隆志による解説では、そうした作者の事情について縷縷触れられているのだが、僕は原則として歌集に跋や解説や栞は要らないという立場なので、それについては触れない。むしろ、このようなしんどい事情を抱えながら、あるいはそれが短歌という表現に作者をおもむかせた動因であったのかも知れぬところ、この3首以外は一切それに言及せず、病を抱えたわが身の悲哀などというところには寄りかからずに詠まれている歌群であるということが尊いと思った。

上記9首の1首目(五月…)、「五月 陽の」の初句の句割れがとてもいい感じだ。「未完のことば」はきみのことばでもありわれのことばでもあるのだろう。青春歌かと思うと作者ははや還暦を迎えているのである。握手!と言いたくなる一首。

2首目(西日入る…)、「わたくしの半生」を深刻化せずユーモラスに詠んだ歌。厨とか言わずキッチンと今風に言ったのもいい。

3首目(雨の夜の…)、一読、ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」を思った。「二人づれ」という機知に富んだフレーズによって、うちひしがれてはいない孤独感が伝わる。

4首目(両の手を…)、「夢」に託しているので何でも言える、と言ってしまえばそうだが、そう尋常な夢ではない。と言いながら、つい最近、僕も人を殺める夢を見た。さて、その後、死体をどう処理したものか、それを考えていなかったなあ、と夢の中で困っているというしょうもない夢であった。

5首目(起きぬけの…)、「頬の骨で止まりぬ」というリアルな描写がいい。「目覚めれば昨日を捨てたわれが居てまずは眼鏡をつけて顔とす」(永田吉文『夏男』)という歌を想起した。

6首目(なあおまえ…)、「おまえ」は具体的なだれかれであるかも知れず、あるいはわれであるかも知れない。命令形の歌の快感が伝わる。こちらのご意見ももっともと思いますが、あちらのご意見もなるほどと思い…、などというのを両天秤をかけるという。

7首目(あやとりの…)、作者の境遇を思えば「酔うて候」は比喩なのだろうと思うが、ワンコインの安酒などよりははるかに「酔うて候」感が伝わる。「酔うて候ドックオブザベイ」という言葉の捌きがすてきだ。一読、オーティス・レディングの「ドックオブザベイ」が流れてきて、頁を繰ってもなお流れ続けている。

8首目(ゆるぎなく…)、真摯な場面だろう。「一輪」なので相手は女性だろうか。「意志」という語の選択がいい。これは生半可な返答はできない、というその一瞬をうまく切り取っている。

9首目(たばこ屋を…)、「永久」は「とわ」と読むのだろう。人生を見通しながら甘酸っぱい感触も残る一首だ。

読みながら、ああ、新仮名なんだな、そうか、新仮名…、と思った。例えば「わらべ唄ほころびのように漏れいずるつぐみつぐめど懐かしき声」の「いずる」、「あしたへとまた咲く花を買いにゆく入道雲のわき出ずるころ」の「出ずる」は、「いづる」「出づる」と書いてほしいと訴えているように感じる。作者の内にある文体と新仮名表記のマッチングについては、今後考えてみてもいいテーマなのではないだろうか。

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