旅立たれた総監督永射保さんwebより

不世出のアンダースロー左腕永射保が語っていた左殺しの誇り7/5(水)8:00配信

1970年代に流行った野球狂の詩講談社作者水島新司という漫画があった。弱小チームである東京メッツを舞台にしたプロ野球の話で、物語の後半に登場し主役となったのが水原勇気だ。初の女子プロ野球選手、さらに魔球を持つ左のアンダースローという斬新な設定もあり、大きな話題となった。

その水原誕生のヒントとなったのが、先日63歳で急逝した永射保ながいたもつ氏だった。以前、永射氏からこんな話を聞いたことがあった。

水島先生が数日、密着したことがあったね。最終的に男じゃつまらんということで女性投手となったみたいですけど、僕のフォームとかいろいろ見ていかれました

また、1978年にピンクレディーが歌い大ヒットしたサウスポーという曲があったが、そこに登場する左投手のモデルとなったのも永射氏だったという。

だからオフに、ピンクレディーのふたりと舞台に並んでサウスポーを歌ったんですよ

水島新司阿久悠漫画界と歌謡界のヒットメーカーふたりのアンテナに引っ掛かったというだけでも、当時の永射氏がいかに特別な投手であったかがわかる。

70年代半ばから約10年。永射氏は、パリーグの並み居る左のスラッガーたちを腰砕けにし、そのバットに空を切らせた。まさに一殺の左殺しとして球史にその名を刻んだ。

永射氏の訃報を伝えるニュースを目にし、脳裏に浮かんだのは、左のアンダースローという空想的な投球フォームと、以前、小郡市で永射氏が経営していた居酒屋野球狂の詩とスナックサウスポーをはしごしながら語ってくれた熱い言葉だった。

鹿児島の指宿いぶすき商時代の永射氏は、勢いのある真っすぐとブレーキの効いたカーブが持ち味のオーバーハンドの投手だった。1971年のドラフトで広島から3位指名を受け入団。身長が170センチちょっとしかなかったことと、当時巨人の王貞治の対策に頭を悩ませていた首脳陣の指示で、1年目のオフに早くも腕を下げた。

1974年に太平洋現西武に移籍してからフォームが固まり始め、腕はさらに下がっていった。

どうせやるならもっと下げてやろう。左のアンダースローは野球界のタブーみたいになっていたけど、タブーは破るもの!と思っていましたから

しかし腕を下げていくと、見本になる投手が見当たらなくなってしまった。そこで参考にしたのが、阪急現オリックスの大エース山田久志だ。

腰の使い方、腕の出し方、ボールを離すタイミング山田さんのフォームを見て、徹底的に考えました。なかでも、ボールを長く持つにはどうしたらいいのか。球離れが早いと、抜け球が多くなって、コントロールも安定しないし、キレも出ない。そこを徹底的に追求しました

そして永射氏の出した答えが下半身の強さだった。

山田さんのフォームは、さすが理にかなっていた。あのボールのキレもコントロールも、下半身の強さがあったからなんです。山田さんの足腰の強さはピカイチですから

そういう永射氏も下半身の強さには自信があった。中学時代から毎日25〜30キロを欠かさず走っていたからだ。その理由は早く帰ると、商売をしていた家の仕事を手伝わされるからだったが、走る習慣はプロ入り後も続き、左右逆の山田久志のような投球フォームが完成した。

1982年に広岡達朗が西武の監督になり、先発とリリーフの分業制がスタートした。それ以前の永射氏は、本人曰く3連戦の初戦が先発、2戦目がワンポイント、3戦目が中継ぎか抑えということもあったという通り、1977年のシーズンは199回2/3イニングを投げている。

それがリリーフ専門となり、なかでも左の強打者相手という特殊な仕事を任されることになった。

左の下手から浮き上がって見えるストレートに、左打者の背中越しから視界の外へ消えていくカーブ。たったこのふたつの球種で、パリーグの左の強打者たちを抑え込み、時には戦意さえ奪った。

なかでも4年間で155本塁打を放ち、サモアの怪人と呼ばれたトニーソレイタ日本ハムは完璧に封じ込めた。

4年間、ヒットもなかったんじゃないかな。しかも、僕のイメージでは9割が三振。毎年、40本塁打、100打点くらいを稼いでいたのに、最後はクビ。当時の日本ハムは、とにかく西武に勝つことだけを考えていて、監督の大沢啓二さんが西武戦で打てんようなヤツはいらんとなったみたいで。僕以外の投手には素晴らしいバッティングをしていたのに、かわいそうな話ですよね笑

また、4000打数以上でNPB歴代トップの打率320を誇るレロンリーロッテは、あまりの苦手意識から右打席に立ったこともあった。

所沢の試合でした。満塁で、どうせ打てないからと右打席に立ったんだけど、インコースをどん詰まりでレフト前に持っていかれてね。こっちも半分笑いながら投げていた

対戦するのは主軸打者ばかり。相手ベンチからすると、代打を出すわけにもいかない。そう話を向けると、それが一度だけねと言って、こんなエピソードを教えてくれた。

永射氏が西武から大洋を経てダイエーソフトバンクに移籍した1989年のことだ。オリックス戦で、打者は門田博光。すると、門田が自ら上田利治監督に交代させてほしいと申し入れ、右の若手が代打に送られた。

これで門田さんは一生、僕のボールは打てないと思った

永射氏の全盛期。対戦を見ていて、打者はもっとベースに近づけばいいのにと思っていた。外角のボールに対し、明らかにバットが届いていなかったからだ。しかし、そんなレベルの話では、もちろんなかった。

インコースをたまに見せながら、問題はバッターの立つ位置より、いかに腰を引かせられるかどうか。どんなにベース寄りに立っても、打ちにいったときに一瞬でも腰が引けて、逃げてくれたら僕の勝ち。一瞬でも腰が引けると、バッターからはボールが遠くに見えるし、芯で捉えられてもスタンドまではいかないから

1試合27あるアウトのうち、永射氏はそのなかで勝敗がかかった1つを取った。チームもファンも、常に完璧を求めた。その重圧の凄まじさは想像に難くない。

でも、やり甲斐を感じていたし、ワンポイントという仕事は性格的にも合っていた。みんながどうしようもない。困ったという場面で出ていって、抑えるというのは最高に気持ちいいからね。それに、ほかのピッチャーの前ではガンガン打つ強打者が、僕の前でだけは腰砕けのスイングをする。こんな快感ないですよ

ストレートとカーブだけで、プロ19年間で606試合に登板した。ただ、防御率に注目すれば、2点台は241を記録した1983年のみ。実際にはそれなりに打たれ、それなりに点も失っていた。ただ、ここぞという場面で、ことごとく相手の強打者を抑えた印象が、当時のパリーグの戦いのなかに色濃く残っている。

その後、永射氏のように腕を下げ、力のあるボールを投げる対左打者用の投手は何人もいたが、真の意味で永射氏を彷彿とさせる投手は出ていない。

とにかく早く、簡単につくりたいと思っているんですよ。フォームも固まっていないのにすぐ一軍で投げさせてもうちょっと我慢して使ってやれば5、6年は持ったのに。僕が一軍で結果を出し始めた頃も永射のマネをさせろとほかのチームもやり始めた。でも、ものにならなかった。僕のところに直接アドバイスを求めてきた選手もいたけど、とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよと。そんな話をすると、誰も聞きにこなくなった

小柄な体からしばしば発せられる強い言葉が、時間をかけて築き上げた自らのスタイルへの自負心を伝えているようだった。この志と精神力の先にあった、あの投球フォームとあのボール。第2の永射保が生まれなかった理由がわかった気がした。

永射氏が亡くなったのは6月24日。実はその前日の6月23日は、永射氏にとって忘れることのできない日だった。

1982年、パリーグがまだ前後期制だった時代。前期の優勝を争っていた西武と阪急が西宮球場で大一番を迎えた。そんな大事な試合で、西武の広岡監督が先発マウンドに送ったのが永射氏だった。狙いは、福本豊加藤秀司、ウェインケージの1、3、5番の左打者を抑えるためで、チーム内でも、僕を含めて4人しか知らなかったという奇策だった。

結果は7回途中4失点6回までは1失点に抑え、試合も11対4で西武が快勝。これで前期の優勝を決めると、プレーオフ日本シリーズも制覇。球団創設4年目で初の日本一に輝いた。

僕らみたいな投手はチームが勝ってこそ。そこでどんどん価値が上がるんですよ

永射氏にとっても忘れることのできないあの1日。永い眠りにつく直前、35年前の快投を思い出したのだろうか。

谷上史朗文textbyTanigamiShiro

webSPORTIVAより抜粋

ピンクレディとは

衣装がなかったので一緒にはステージに立たなかった!

とおっしゃっていましたが

立たれていたとは驚きでした。

新野球環境プロジェクトにとって特別な特別な存在です。